酢は紀元前5千年頃より、その製造の記録が残されており、人がつくりだした最初の調味料と言われる。
旧約聖書にも酢の記述が見られ、ヒポクラテスは病気治療に酢を使い、クレオパトラは美容を保つため真珠を酢に溶かして飲んだと伝えられる。
事の真偽はともかく、酢に古い歴史があることは事実である。
日本では、酢は3世紀ごろ中国より伝来したとの説が有力で、調味料以外にはやはり薬として用いられていたとの説もある。
日本でも、世界でも当時の酢は製造に時間がかかり、非常に貴重なものとされていたようである。
慶安2年(1649年)尾張の国で大発明があった。
織田信長の家臣岡田半左衞門泰政が、その職を退いて数十年後。その孫である泰次が、酢の大量生産に成功したのである。
酢はそれまで、古くから(927年に編纂された延喜式に記載がある)伝わる方法で、つくられていた。しかし泰次は、当時としては画期的な技術を開発し、安定的かつ大量に酢をつくりだすことができたと考えられる。
経済が大きく発展していく江戸時代。人口が増え、食も多様化し始めたそのころ、泰次のつくった酢は、庶民の食生活に広く浸透していくこととなったのである。
さて、18世紀半ばからマルカン酢にとって重要人物が、もう一人登場する。
岡田勘三郎泰満の次男、傳左衞門である。
傳左衞門は、母方の里、春日井郡田楽村の笹田家に養子入りし、笹田傳左衞門となった。
これが現在も続く、笹田傳左衞門の初代である。(現在のマルカン酢社長は第十代となる)
初代傳左衞門は、当初春日井で酢屋を開業し、その後名古屋の袋町に居を定め、酢の醸造に力を注いだといわれる。
その後しばらくは、本家岡田家と競うように事業を発展させていく。
しかし、三代傳左衞門のころ、本家の岡田家は次第に衰退し、やがて笹田家に吸収されてしまうのである。
そして大名席であった勘三郎の名も、笹田家が引き継ぐこととなった。その後、笹田家は順調に発展し、名古屋長者番付(『名古屋商人史』中部経済新報社)に名を連ねるほどであった。
明治になり、世の中も大きな変化を迎えたが、マルカン酢にとっても、この時代は大きなエポックとなった。
まず1885年、丸勘印が、正式に笹田家の所有として認められた。この前年、商標条例(現在の商標法)が発布された。これにより、他の酢屋でも使用されていた丸勘印は、無事笹田家のものとなったのである。
そして1893年、七代笹田傳左衞門の時代、兵庫県武庫郡本庄村(現在の神戸市東灘区青木)に新工場を設立。念願であった関西進出を果たした。
その後1905年、キッコーマン一族の茂木本家より、七代傳左衞門の娘はなに婿養子を迎えた。これが、八代傳左衞門である。八代傳左衞門の時代、マルカン酢は精力的に生産を増強。兵庫県の食酢生産の多くを担うこととなる。
そして1908年、マルカン酢の宮内庁御用達が認められることとなった。御用達制度は現在廃止になっているが、当時としては正に品質の証明であった。
こうしてマルカン酢は、明治という時代を通じ、大きく事業を発展させていったのである。
順調に歩みを続けていたマルカン酢であったが、1939年に勃発した第二次世界大戦は、その成長に大きな暗い影を落とすこととなった。
1941年、大陸視察中の八代傳左衞門は不慮の事故により彼の地で帰らぬ人となった。これは戦争の直接の影響というわけではなかったが、その後の苦労を暗示するような出来事であった。八代には子供が無く、キッコーマン一族の髙梨家より養子を迎えていたが、これがその後を継ぎ九代傳左衞門となった。
九代も、精力的な活動をおこなっていたが、物資の乏しい戦時のことであり、生産は思うに任せなかった。
そして、まさに終戦を迎えようとする1945年、1月名古屋工場が、そして8月神戸工場が相次いで空襲にあい、マルカン酢は全てを焼失してしまったのである。
終戦後、神戸工場は瓦礫の山と化していた。
その中で、兵役より帰還した九代傳左衞門は、同様に帰還した社員を率いて、復興に邁進することとなる。
紙も鉛筆もなかった状況の中、九代が瓦礫の間の地面に、焼けぼっ杭で蔵の図面を描いたことが、その復興の第一歩であった。
1980年代の後半から、マルカン酢では製造施設の再編をすることとなった。
神戸の青木工場、東京の赤羽工場は、それぞれ老朽化が進み、設備更新が必須であった。
また、関東と関西に製造拠点があれば、名古屋で生産を継続する意味も薄くなっていた。
1988年、本社工場を六甲アイランドに移転し、操業を開始した。
一方、1991年名古屋工場を閉鎖し2工場体制とした。
その後、1994年茨城県稲敷郡阿見町に関東工場を建設、東京赤羽工場を移転することとなった。
現在もこの2工場は東西の2拠点として生産の要となっている。
1995年1月に発生した阪神大震災の被害は大きかった。本社のある神戸市東灘区は、最大の被害地であったが、1988年に移転した六甲アイランドの新工場は、事前の地盤改良が奏功し、被害が比較的小さかったのは不幸中の幸いであった。
また、1994年に竣工した茨城県の関東工場が、本社工場からの供給不足を補完した。
そして、2011年の東北大震災において、今度は関東工場が被災した。その程度は軽微であったとはいえ、生産に制限が加わる中、これを本社工場で補うこととなった。
2度にわたる大震災を経て、歴史の不思議を思うと共に、危機に対する備えを痛感する。
そのような試練を越え、食品メーカーとして「安心・安全」は当然のこととして「技術力に裏付けられたプレミアムメーカー」を目指して日々研鑽を積んでいる。地元神戸をはじめとする、幅広いお客様に愛され、これからも人々の『健康とおいしさ』に、貢献していくことをめざしていく。
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